「開発援助と人類学勉強会 100回記念 & No more?!」
2008年4月12日(土曜日)に「開発援助と人類学勉強会」(以下、開人)の勉強会が開催され、140人近い方が申し込まれ、100名近い方が出席されました。
この勉強会はアジア経済研究所の佐藤寛氏と数名の仲間たちによりはじめられたもので、正式の発足は1994年になります。
わたくしは1992年より1995年までは青年海外協力隊の隊員としてパラグアイに派遣されており、帰国した1995年にこの勉強会のことを知りました。その当時市ヶ谷にあったものものしい雰囲気をかもしだしたアジア経済研究所の建物に足んだ初日、会場には、英語の論文を読み続ける研究者の方などもおられ、果たして自分自身が参加できる空間なのかと思ったことを今でも鮮明に覚えております。
当時のわたくしは、進路について悩み、開発援助現象に関わった当事者として悩み、人類学と援助を結びつけることの難しさについて悩み(開発は「悪」というような暗黙の了解が学問の中ではあった)、開発の中にあるジェンダー課題をどのように解決していくことができるのか悩み?考えるなど・・・様々なことを考えておりました。このようなことを議論できる空間が開人にはあり、気がついたら長い間参加させて頂くことになりました。
また、自分自身の研究内容が四面楚歌に陥っても、開人でなら議論ができたことも事実です。この空間では、多くのことを先輩諸氏から学ばせて頂きました。
一時期、勉強会は中止(おわり)の危機に直面しました。佐藤氏がイエメンに再赴任されることとなり、「勉強会を止める(疲れた?!)」と言われたわけです。その時の送別会の席でなんとわたくしが、「わたしが留守を守ります」と宣言した(らしいです)。このことは、長きにわたり勉強会の運営を担ってこられた森氏より先日指摘されました。
今、思いおこせば、確かにそうであったようにも思います。佐藤氏が赴任された後、留守を担った10数名のメンバーで開人を運営して参りました。各人ができる範囲で、発表者をお願いし、司会や記録を担当し、イエメンまで郵便で(当時はインターネットが今ほど、普及していなかった)カセットテープと議事録を送っていました。その後、自分自身の仕事が忙しくなり、議事録などのイエメンへの送付が途絶えてしまったような気もいたします。
ついこの間、暗く、重々しい市ヶ谷のアジ研に足を運び、研究をするようになった思いでありますが、開人に関わりはじめてすでに13年の月日が流れていることに驚き、感無量でもあります。
佐藤氏の暖簾分けを受け、愛知や京都で「開人パート2(名前はわかりません)」なるものが活発に始まるようです。わたくしも開人の教え、それから13年間考え続けてきた開発とジェンダーについて、あとに続く方々とともに試行錯誤すべく「開発におけるジェンダーと人類学」といった勉強会を開催していきたく存じます。
開人でお会いした皆様方、ご興味がありましたら東京で勉強会を開催していきたいと思いますので、気軽にお声をお掛け下さいませ。
佐藤さんをはじめ、開人でお会いした皆々様、本当にありがとうございました。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
藤掛洋子